心に花の咲くblog re.

If I let you know where I'm going - won't be on holiday.

150715どこまでをハンバーガーと呼ぶのか?

f:id:imkmi:20151111085532j:image
どこまでを”ハンバーガー”と呼ぶのか?

という極めてどうでもいい話。
ここで登場するのはハンバーガーですが、サンドイッチにも同様のテーマがあります。

さて。
この疑問をはじめて心に抱いたのはいつだったろうか。
ビッグマックを縦につぶして口に入る厚さに圧縮させた後、口にほおばっている人を見かけた時
「そこまでしてその厚みを克服することに、力を注がなくてもいいんじゃないか?」
否!
「その人は、口に入る厚さにすることで、ハンバーガーをハンバーガーとして食べようと懸命なんだ」
そんなことを、幼心に思ったのがすべてのはじまりだったかもしれない。

それから数年がたったある日。

おそらく東京駅の近隣。とあるハンバーガー専門店で食べた、アボガドバーガー(多分)という名の、高さが10cm以上もあろうビッグマックをはるかに凌駕していた食べ物。
それを目の前にした時に、その疑問は確実に自分の中に確立された。

どう考えても、自分の口の高さを超えた高のハンバーガー。これをどうしたら美しく食べれるのだろうか?

しばらくの間、この疑問に逃げずに向き合って考えたが答えが出ない。
答えが出ないと人間は責任転換をはじめる生き物なのだ。
例えば仕事がうまくいかない。具体的には受注ができない。
最初のうちは「なぜ俺は受注が取れないのだ?」と、それなりに健全な思考をする。
それが続くと「いや俺は悪くない。悪いのは市況が悪いからだ!そもそもこの商品が悪いんだ!」と容易に責任転換をしてしまう。
同じように、どうやって食べるかという答えが出ないのは、そんなハンバーガーまたはサンドイッチを作った店が悪い!となった。

その日から、自分の中でひとつの定義が生まれた。

【定義】
ハンバーガー(またはサンドイッチ)の高さをHとする。
各自の口の高さをMとする。
この時、M>Hでなくてはならない。

ようは、
口の高さに入らないハンバーガーはハンバーガーと認めない!
ということになる。

これからはこの定義を心に持ちながら生きていこう。
そう決めたのは社会人数年目のある日だった。


そして月日はすぎた2014年。

北京の三里屯にあるLa Pizzaというレストランで大学の先輩と食事をしていた時。
ピザを食べながらフト例の定義を思い出した。
なぜピザを食べながらハンバーガーを思い出したのか。それは偶然だったのか、それともその先につながる何かに気付いていたのかもしれない。
その人は、海外生活が長い人だった。もしかしたら長年の回答をもらえるかも?と質問をぶつけてみた。
「やたら具が多くて普通に口に入らないハンバーガーってありますよね?あれって非常識ですよね。正式な食べ方を教えて欲しいもんですよね」
すると予期せぬ回答が返ってきた。

「別々に食べればいいんじゃない?」

は?

いやいやご冗談を。
 だって、パンに肉と野菜などなどを挟んで一緒に食べるからハンバーガーでしょう。
 バラバラに食べたら、パンとハンバーグと野菜でしょ。いわばハンバーグ定食でしょ。
 牛丼屋で牛丼オーダーしたのに牛皿定食出てきたら、それじゃない感あるでしょ?ウナギだって、うな重と蒲焼で別モノでしょ。それっておかしいでしょ?!と必死に反論した。
「そう?どっちでもいーんじゃない」
 と涼しい顔で言われ、これはきっと価値観の違いだ、絶対にそんな現実は認めない。
その一方で何か大きな敗北感を味わったのは確かだった。

数日後

目の前にそびえ立つハンバーガーを前に、しぶしぶパンとハンバーグと野菜を分解。
それを小さく切った後、パンと肉と野菜を少しずつ積んで食べると、まあ確かに食べやすい。
それなりの満足感もある。
しかし、これはハンバーガーなのか?
パンとパンに挟まれてこそハンバーガーだろ。この食べ方ではむしろトーストいやピザに近いだろ。
チーズは入っていないとはいえ、ハンバーガーをオーダーしたのにピザが出てきたら普通怒るだろ。
やっぱりこんな邪道は認められない。
そうは思いながら、最近では普通にこの食べ方が定着している。

水は低きに向かい流れる。人も同じか。
いや。これは決して何かを諦めたワケじゃない。ただちょっとだけ。そう、今まで頑なだった自分に寛容になっただけ。この不条理で、矛盾に満ちた世界を生きるため、こっそり神様がささやいてくれたトリビアなんだ。
そう、信じてる。